聖書の時代から変わらない?銀行に預けたくない金銭感覚
私の主業は外国人の在留資格である。彼等の仕事をしていると、お金の扱いの違いに振り回されることがある。そんな話なのだが、その前に聖書の一節を紹介する。新約聖書の一節なのだが、紀元直後のイスラエルの話で、ユダヤ人、アラブ人、アフリカ人、ローマ人が混在していた時代の話だ。
ある人が、旅に出るとき、3人の僕(しもべ)にそれぞれお金を預けた。そのうち二人は商売をして、そのお金を倍に増やしたが、一人は地面に埋めておいて、そのまま返した。その僕を「悪い僕だ、少なくとも、銀行に入れておけば金利がついた」と言って預けた財産を取り上げたという話だ。
参考: マタイによる福音25章 14節-30節
私の家はカトリックなので、このたとえ話は子どもの頃から耳にたこができるくらい聞かされてきた。この話で登場するお金の単位がタラントン、後にタレント、つまり才能の語源になった。「授かった才能を無駄にするな」という教えである。この話を、純粋にお金の話として読むとなんとなく民族性が見えてくる。
現金が少ないアメリカ人
私の回りだけかもしれないが、アメリカのプロテスタントの人はこの話が好きな気がする。そこで、まずアメリカ人の話だ。外国人が日本で起業するときに最低500万円の資本金が準備できることを証明しなくてはならない。あるアメリカ人、バンク・バランスは10万ドル以上あった。ところが、キャッシュは1万ドルしかない。あとは、すべて株などの金融資産だ。現金でおいておくよりリターンの大きい資産にしておこうというところがアメリカ的だ。積極的に増やすこと(聖書が言っているのは才能だが)をよしとするたとえ話を地で行っている。実は、これがけっこう困る。 日本の役所は保守的なので、これをなかなか資産として認めてくれないのだ。最終的には、問題にならないが、必ず一度、二度質問がくる。
なぜ僕はお金を土に埋めておいたのか
たとえ話に戻る。地下にお金を埋めていた僕(しもべ)はなぜ銀行に預けなかったのだろうか。聖書の時代は、現代のような金融システムはない。銀行が潰れる可能性が今よりずっと大きかった。そのため、金利はつかなくても、土に埋めていた方が安全であったらしい。ところが、実は、今も南アジアや中東、アフリカの人たちは銀行にお金を預けたがらない。20万の給料が入ると、そのまま20万引きだし現金で持っている。理由をきくと、「そもそも習慣がない」という答えが多いのだが、中に、「ロックオウトになってお金を引き出せななくなると困る」と答えた人がいた。聖書の時代とその感覚はあまり変わっていないのかもしれない。
銀行にお金を預けない理由はまだある。
「銀行に預けると税務署ににらまれる」という理由だ。さらに「そもそも預けられない」というのもある。袖の下の横行する国では、その種のお金を銀行に預けると証拠が残り、どこかでバレるからという。頭がくらくらする。「けしからん」と思う人もいるかもしれない。しかし、実は日本人も少なからずこれをやる。飲食店にありがちだが、現金取引の部分は、預けず売上計上もしないという話はよく聞く。税務署が一番目をつけるところだ。
銀行口座が使われないとどうなるのか
銀行にお金を預けない理由はいろいろあるのだが、困ったことがおこる。例えば永住申請や帰化では「安定した収入、生活、蓄え」を立証することが求められる。銀行に入ったお金、出ていくお金、貯まったお金が記録されていることが一番説得力があるのだが、これがまるで見えないのだ。前述した起業のときの在留資格も同じだ。留学生が経営管理という資格をとるとき、資本金はどうやって貯めたのか、つまり見せ金による設立ではないことを立証しなければならないのだが、突然500万という資金が現れる。稼いだのか、一時的に人から借りたのかもわからないのだ。日本政策金融公庫の創業融資などでも同じである。つまり、創業融資が受けられないということになる。
大海に一滴!
私は、何年もこの話をしてきているし、ことある毎に文章にもしているのだが、 残念だが未だに改善をみない。それが、私の事務所が税理士事務所でもないのに記帳を業務とする理由でもあるのだ。"大海に一滴" を感じる日々である。