骨髄ドナー体験記

骨髄移植ってなんだ

訳あって骨髄ドナーとして入院をすることになった。 造血幹細胞移植というやつだ。なぜ、そうなったかというところを話すとドニーが特定されてしまう可能性があるので、ご勘弁いただきたい。いわゆる血液癌といわれる病気のために骨髄内の造血幹細胞という血液をつくる細胞を提供する。造血幹細胞自体は提供しても健康体であればすぐに作ることができる。

移植方法にはいくつかあるようだが、私がやったのは末梢血幹細胞移植という方法だ。普段は、骨髄内にあるこの細胞を、G-CSF(顆粒球コロニー刺激因子)という白血球をふやす薬を投与して、血中にあふれさせる。取り出した血液を遠心分離機にかけ、細胞だけをかき集めて、血液は体に返す。要は透析の要領である。余分なものを捨てるか余分に作り出したものを使うかだ。詳しく書かれたHPがあるので、ご興味あるかたはこちらをどうそ。

移植の手順だが、まず、ドニーと適合検査をして、白血球の型であるHLAの一致度を検討する。合えば健康診断をし、それでも問題がなければ入院しG-CSF(顆粒球コロニー刺激因子)を投与する。最後に移植の為の細胞を取り出して終わりである。

まずは適合検査

適合検査は、綿棒のようなもので、口の中をぐりぐりして、それを病院に送る。私の検査の結果は適合であった。健康診断の方も、私は今年で65歳になるが、おかげさまでどこも悪くはなく、ほぼ完璧な数値だった。あえていうなら、コレステロール値が基準より高いが、善玉コレステロールの値が高いために、総合値があがっているだけだ。「お酒を飲む方だと聞いていたので、肝臓の値を心配していましたが、まったく問題がありません」とお墨付きをいただいた。このあたりまでは意気揚々である。「少しは身体に気を遣ってくださいね」と余計な世話を焼く事務所の職員の鼻を明かした気がして良い気分であった。

いよいよ入院

6人部屋から


さて、いよいよ入院である。私は入院したことがない。いや、病院で生まれているので、生まれた瞬間は入院患者だったわけだが,全く記憶にないので初体験である。入院当日まず手続きで3時間ほどかかった。PCR検査をする必要があって、仕方がないのかもしれないが、入院時の注意とか問診やら、あちこちの部署をうろうろさせられ、どの部署でも待たされ、似たような質問をされるので、結構時間がかかるのだ。病院にもよるのかもしれないが、共通の核となるデータ共有はあるが、各部署というのはほとんど連携がないのだろう。それぞれの部署が、それぞれ与えられたタスクを均一にやろうとしているように感じる。例えば入院受付、事前問診では、病気で入院する人と健康体のドナーとは聞くべきことが違うはずだが、おかまいなしである。しかも聞かれた内容がどこかに入力されているとも思えない。ベルトコンベアーに載せられた製品になった気分である。医療現場のレベルでは、当然個々の患者の特性をみるわけだが、病院全体となるとほとんどそこはケアされていないように感じてしまう。病院の患者は、それらの時間も含めて病院で過ごすわけで、ストレスを与えないようなシステム作りがされていたら、それほど不平不満を感じることもないだろうにと思いながら、なんとか6人部屋のベッドにたどり着いた。

1日目〜準備が始まった〜

早速、採血で、G-CSF(顆粒球コロニー刺激因子)の投与である。腰が痛くなるとのことだったが、その日は結局痛みは来なかった。それより寝られないのに困った。あまりにうろうろするので、看護師から声をかけられ、すったもんだあったあげく、個室が空いてるということで、個室に移動させてもらった。「えっ、空いてないって言ったじゃん」と思ったが、とりあえず移れたので幸運である。

2日目〜苦しみのスタート

翌日も、投与、一日5回の検診以外はすることがない。しょうがないので、結局チャットで仕事をすることにした。あたりまえのことだが、病院というところは、個室といえども仕事をするようにはできていない。どうしても、姿勢が悪くなるし、メモやら小物をうまい具合に配置できないのでイライラする。しかも、行政とちょっとしたもめ事を抱えていたので、その電話でもイライラする。個室にいるからできることではあるが、かえってストレスを増大させることになる。入院するときは、きっぱり仕事を忘れることです。

夕方、腰ではなく、背中にはりがでてきた。投与後から6時間経過していた。これくらいは、寝てしまえば我慢できると思いながら消灯したが、あまりの痛さに12時頃に目が覚めた。ずっと痛いならいいのだが、痛い、収まるを繰り返すのと、病院初心者にはナースコールの存在を思いつかず、結局3時頃までそんな状態が続いた。どうやら6時間後から副反応がでて、12時間後から15時間後ぐらいが痛みのピークにようだ。

3日目〜やばい、、コロナだ!!

3日目の午後突然医師とと看護師が青いビニールの防護服で現れた。なんと院内にコロナの感染者がいたという。患者は(私は患者ではないが)全員、廊下に出されて順番にPCRをうける。これで陽性だったら、ここまでの苦労は意味がなくなる。やり直しである。ドニーのスケジュールもある。結果的には、陰性であったらしい。つまり結果を知らされていない。夕方、痛み止めの薬をお願いした。6時間おけば飲めるということなので、前日の経験から6時間後と12時間後に痛め止めを飲んだ。効果はかなり大きい。それでも、ズキズキ感は残る。この二日間、身体は不愉快で、精神的には苦痛な時間である。

懐かしい公衆電話

4日目〜いよいよ採取の日〜

採取の日も、薬は投与する。手術はどれくらいかかるのか看護士に聞くと「2時間くらいじっとしてないといけないので、今のうちトイレにいってきてください」とのことだったが、いざ処置室に行くと、そこのオペレーターは「うーん、3時間くらいかな」という。さらに、医師が来てカルテを眺めながら、「ざっと5時間くらいですかね」とだんだん長くなる。あとでわかったことだが、ドニーの体重が私よりずっと重いので、かなり多めにとらなければいけないので、時間がかかるということだった。

手術といってもメスをいれるわけではない。両腕に針を刺し横になっているだけだ。片方の腕から血を抜き、もう一方に返す。針が両腕に針をさされ、機械が動き始めだ。この5時間は、ひたすらじっとしているしかない。機械がときどき変な音を立てる度にドキドキするのだが、それも30分もするとなれてしまう。テレビをつけてくれているのだが、5時間見ていると同じようなニュースを繰り返し見ることになる。とにかく、動けない苦痛と闘うしかない。水を飲みたくなっても、頭がかゆくなっても手が使えないのだ。トイレに行きたくなると、尿瓶をあてられる。いつかは経験するだろう人生終盤の病院生活の予行演習である。困ったのは、足が吊り始めたことだ。看護師に、押してもらったりしながら、なんとか吊らずにすんだ。

手術は無事終了

結局私の場合5時間かかった。血液が全部戻る時間もいれると5時間15分だ。せいせいするはずなのだが、とった血小板を確認して充分な細胞量がとれているかを確認できないと、翌日再度同じことをすることになる。モヤモヤした気持ちで車椅子に載せられて部屋に帰った。まったく問題なく歩けたのだが、これもルールだそうだ。医師から「お疲れ様でした。充分な量が採取できました」と告げられて、ようやくほっとしたのは1時間半後であった。


手術後に見た夕焼け


やっと退院

翌日、血液検査があり、退院となる。実は、手術当日に、「終わったのだから帰っちゃだめか?」と訴えてみたが、主治医から「医療というのは、厳しいルールがあって初めて安全が担保されているのです」と諭されシュンとなった。法律で飯をくっている行政書士としては黙るしかない。わずか5日間であるが健康体には苦痛な5日間であった。これで、とりあえずドナーとしての役割は果たしたわけだが、受け取るドニーにこの細胞がくっつくかどうかは、やってみないとわからない。ドニーには、さらにつらい治療が待っている。拒絶される可能性もある。さらに、再発もありうる。なんとか、役に立ってくれることを祈るばかりだ。

エピローグ〜

今回、病院という閉鎖された環境に5日間身をおいたわけだが、2年前に他界した父を思い出した。私の父はどこにも悪いところはなかったが、最後の半年は病院のお世話になり、入退院を繰り返した。そのたびに「家に帰りたい」とぼやいていた。食べるのはやめて、点滴で何日か過ごしたこともある。食いしん坊の父は「ちょっとは旨いものも食べられないとな」と言って、主治医と家族を困らせた。最後は、家で寝たまま呼吸が止まった。しかし、今、考えてみると楽しみもなく、苦痛な半年を過ごすのであれば、家で大好きなハーゲンダッツのアイスクリームをなめさせてやれば良かったと思う。病院というところは健康を取り戻すための、修理工場であって生活の場ではない。やむを得ず入院を選択する人もいるだろうが、私は大規模な手術をしても50/50なら、"生活"をして、一生を終えたいと思う。

私は、間違いなくモンスターペイシェントになる。

病院というところに不慣れと言うこともあるが、私は、間違いなく父親以上のモンスターペイシェントになる。息子には、「決して延命治療をするな、最後まで一滴でいいから旨いワインを飲ませてくれ」とLINEを送った。


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