浅草が復活しているようである

浅草が復活しているようである。一時、レンタル着物を来て歩いているのは、外国人と相場がきまっていたが、今みかけるのは、着物に革靴、髪飾りという大正浪漫を彷彿とさせる装いの若い日本人女性である。

最初の浅草の記憶

浅草の最初の記憶は、小学校へ入学する年だったと思う。西暦でいうと1964年、前の年のオリンピックの年の正月である。それ以前も来ているのかもしれないが、記憶にない。母方の実家が根岸5丁目にあり、正月には親戚があつまる。祖父は、うるさい孫たちを全員引き受け、浅草までつれていってくれた。ほんの数時間、親たちは落ち着いて茶飲み話ができるというわけだ。子供の足ではちょっとした距離だが、仲店でおもちゃを買ってもらえるので、文句も言わずにてくてくとついて行く。私より一つ上の、一番上の孫が中学にあがるまで、正月の定例行事であった。当時の浅草は、子供の目には。とにかく賑やかで騒々しい場所であった。

その後、中学、高校、大学、社会人と浅草とは縁がなかった。浅草より、新宿が面白かったし、大人になってからは六本木や銀座である。

浅草にすむことに

突然浅草に住みたいと思ったのは、11年前、東日本大震災の直後のことである。なぜ、浅草に住みたいと思ったかというと、きっかけは池波正太郎の小説だった気がする。度々登場する浅草寺の境内に、子供の頃のことを思い出したのだ。丁度暇を持て余して時期でもあり、浮世絵や時代小説の舞台を散歩でもしながら暮らすのも良いだろうと思ったのだ。

私が住み始めた頃の浅草は正直なところ、子供の頃のような活気はなく、すでに観光地としては終わったかにもみえた。その少し寂れた感じに惹きつけられたのだが、長くは続かなかった。

震災の後、最初に人が戻ったのは浅草だったと思う。さらに、インバウンド需要で、あちこちに横文字が並ぶようになり、さまざまな言語が飛び交い、浅草は外国人観光客の町になった。

コロナがやってきた

ところがコロナだ!仲店はシャッター街と化した。もちろん、新仲店も、ROXも地下の食品売り場以外は閉館。普段なら、早朝でも散歩を楽しむ人がそこそこいるのだが、昼のまっただなかでもほとんど人がいない。誰に聞いてもこんな浅草は誰も見たことなどないという。

コロナで人のいなくなった浅草

そして復活

それでも、今回も浅草は蘇った。浅草散歩はコロナ下にはもってこいのレジャーなのかもしれない。鬼滅の刃、浅草キッドと浅草を舞台にした作品が続いたせいもあるだろう。浅草寺ブランド、浅草ブランドは未だ錆び付いてはいなかった。江戸風情が売りだった浅草は、今は大正浪漫である。次はなんだ、、。これからも、繰り返されるに違いない。



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